大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和63年(行ケ)23号 判決

原告 メルク エンドカムパニー インコーポレーテッド

右代表者 ジェームス エフ ノートン

右訴訟代理人弁護士 久保田穣

同 増井和夫

同弁理士 岡部正夫

同 安井幸一

被告 特許庁長官 吉田文毅

右指定代理人通商産業技官 俵湛美

〈ほか一名〉

同通商産業事務官 柴田昭夫

主文

特許庁が昭和六一年審判第一七五七六号事件について昭和六二年一〇月一日にした昭和六一年九月二四日付け手続補正の却下決定を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

主文同旨の判決

二  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」

との判決

第二請求の原因

一  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和五三年一二月一九日、名称を「C―〇七六化合物の一三―ハロ及び一三―デオキシ誘導体」とする発明(以下「本願発明」という。)について、一九七七年一二月一九日アメリカ合衆国においてした特許出願に基づく優先権を主張して特許出願(昭和五三年特許願第一五五八七二号)をし、昭和五八年二月九日付け手続補正書により明細書の補正(以下「第一次補正」という。)をしたが、昭和五九年八月一七日拒絶理由通知を受けたので、昭和六〇年三月二二日付け手続補正書により明細書の補正(以下「第二次補正」という。)をしたところ、同年五月二八日第二次補正の却下決定があり、次いで昭和六一年四月七日拒絶査定があったので、同年八月二五日審判を請求し、昭和六一年審判第一七五七六号事件として審理されている。原告は、右審判手続において、同年九月二四日付け手続補正書により明細書の補正(以下「本件補正」という。)をしたところ、昭和六二年一〇月一日、「昭和六一年九月二四日付けの手続補正を却下する」との決定(以下「本件決定」という。)があり、その謄本は昭和六二年一〇月一四日原告に送達された。なお、原告のため出訴期間として九〇日が附加された。

二  本願発明の特許請求の範囲

1  願書に最初に添付した明細書(以下「当初明細書」という。)記載の特許請求の範囲

別紙(一)のとおり。

2  本件補正書記載の特許請求の範囲

別紙(二)のとおり。

三  本件決定の理由の要点

1  本件補正は、当初明細書に一般式

(式中、破線は単一結合又は二重結合を示す。R1は水素又はハロゲンである。R2は水素、メチル又は低級アルカノイルである。R3はn―プロピル又は第2級ブチルである。R4は破線が単一結合を示す場合にのみ存在し、そして水素、ヒドロキシ、低級アルカノイルオキシ、低級アルキルチオ、低級アルキルスルフィニル、低級アルキルスルフォニル又は低級アルコキシを示す。)で表されている化合物において、R3のn―プロピルをイソプロピルに補正するとともに、目的化合物の物性を補充するものである。

2  ところで、当初明細書には、R3がn―プロピル基である目的化合物については、その製造例、物性等の該化合物を実質的に把握することのできる記載は全くなく、単にR3がn―プロピル基であるという構造によって把握できるにすぎない。

このような場合に、そのn―プロピル基をイソプロピル基に変更し、新たに目的化合物の物性を補充する補正は、当初明細書に記載された本願発明の化合物を別異の化合物に変更するものというべきであり、明細書の要旨を変更するものに該当する。

したがって、本件補正は、特許法第一五九条第一項において準用する同法第五三条第一項の規定により却下すべきものである。

四  本件決定の取消事由

本件補正については、物性値の補充の点において明細書の要旨を変更するか否かを判断すべきであるのに、本件決定が当初明細書に記載された本願発明の化合物を別異の化合物に変更したことを理由として本件補正を却下したのは違法であり、また、当初明細書にはR3がn―プロピル基である目的化合物について該化合物を実質的に把握することのできる記載があるのに、本件決定が右記載は全くないとして前記理由により本件補正を却下したのは違法であるから取り消されるべきである。

1  当初明細書には、対象化合物の化学式の説明に一部誤りがあり、置換基R3を「イソプロピルまたは第二級ブチル」とすべきところ「n―プロピルまたは第二級ブチル」と記載していた。これは目的物を得るための反応の進み方に誤認あったためではなく、出発物質の構造について錯誤があったためである。

そこで、原告は後に判明したこの誤りを訂正するため第一次補正により他の誤記の訂正とともに特許請求の範囲及び発明の詳細な説明中の「n―プロピル」をすべて「イソプロピル」に変更したところ、第一次補正は特許庁審査官にそのまま受け入れられ、昭和五九年八月一七日付拒絶理由通知書には、化合物の発明に関して、化合物を固定するに足りる理化学的資料が必要である旨の指摘があったが、「イソプロピル」と変更した点は問題にされていなかった。そこで、原告は第二次補正により本願発明の化合物に関する質量スペクトル、核磁気共鳴(NMR)等の測定値を追加したところ、特許庁審査官は、自ら理化学的資料の補充を求めておきながら、第二次補正却下決定において、R3は既に当初のn―プロピルからイソプロピルに補正されていることを認定した上で、ただ物性値を補充した点が要旨変更に当たるとし、昭和六一年四月七日の拒絶査定により本件出願を拒絶した。

原告は、右拒絶査定に対し不服の審判を請求し、審判手続において、医薬品を対象とする特許請求の範囲の削除等当初の二二項から成る特許請求の範囲を四項に整理することを目的とし、かつ再度物性値を補充する本件補正を申し立てたところ、本件決定は、本件補正は化学式をn―プロピルからイソプロピルに変更し、かつ物性を補充したものと認定し、それは当初明細書に記載された化合物を別異の化合物に変更することであり、要旨の変更であると判断した。

しかしながら、本件決定の判断は、それまでの審査手続に関し重大な誤認がある。前期の経過によれば、本件決定においては、本件補正が物性値の補充の点のみで要旨変更に該当するか否かを判断すべきだったのであり、化学式を変更したことを理由とすることは明らかに誤りである。

2  本願発明は、出願人が発見したストレプトミセス・アベルミチリスという微生物の製造する新規な化合物群(出願人はこれをC―〇七六化合物」と総称している。)を出発物質として製造される誘導体とその製法を対象とするものであり、より具体的にはC―〇七六化合物とは、当初明細書第八頁に記載された化学式の構造(別紙(三)参照、ただしR2の定義は誤り。)を有するものであり、その一三位の置換基ROを取り外し、この位置を水素又はハロゲン原子にしたものが本願発明の対象とする誘導体である。

当初明細書は、出発物質であるC―〇七六化合物の入手法をこの化合物を得た発明についての米国特許出願第七七二、六〇一号を引用して説明しており(第六頁第一四行ないし第一六行)、右米国特許出願の記載は、昭和五二年特許出願公開第一五一一九号公報(甲第六号証)の記載と一致してといる(右米国特許出願は、米国特許出願第六七八、三二八号の部分継続出願であり、右公開公報は後者に基づく優先権を主張して日本に出願されたものである。)。そこで、右公開公報を見ると、「ストレプトミセス アベルミチリス(中略)によって生産されるC―〇七六から四つの主成分と四つの微量成分が単離された。この八つの異なる成分はC―〇七六A/a、A/b、A2a、A2b、B/a、B/b、B2a及びB2bと命名された。我々の同定用語では、接尾語“a”は主成分を、接尾語“b”は微量成分を意味す。“a”及び“b”化合物間の構造上の相違は四つの対のおのおのについて同じであると信じられている。」(第七頁右下欄第一〇行ないし第二〇行)と記載され、この八つの異なる成分おのおのについて分子量が決定され(第九頁の表1)、さらに質量スペクトルピークも測定され(第一二頁の表3)記載されている。

このように、本願発明の目的化合物は、ストレプトミセス・アベルミチリスにより生産され、C―〇七六化合物と呼ばれる八種類の化合物の一三位に存在する大きな置換基(o―α―L―オレアンドロシル―α―L―オレアンドロス基)を除去することを基本とし、この位置を最終的に水素又はハロゲン原子にした化合物(当初明細書第九頁第一五行ないし第二〇行)であり、一三位の大きな側鎖の除去と置換反応の具体的手法は、C―〇七六化合物全部についての共通の説明として当初明細書第二〇頁第一〇行ないし第二八頁第一七行に記載されている。例えば、第二一頁第一〇行以下には、C―〇七六化合物を水とジオキサンなどに溶解し酸を加えて反応させ、C―〇七六化合物アグリコン(アグリコンとは、一三位の置換基がOH基になった化合物である。)を得ることが説明され、第二二頁第一〇行、第一一行には、「更に、アグリコン化合物の製法をC―〇七六化合物のすべてに適用することができる。」と記載されている。このようにして製造したC―〇七六化合物アグリコンは、塩基の存在下にベンゼンスルフォニルハライド化合物存在下で容易にハロゲン化され(第二三頁第七行ないし第一三行)、得られた一三―デオキシ―一三―ハロ―C―〇七六アグリコン化合物は、当該技術に精通せし者に知られている方法によって単離され(第二四頁第一〇行ないし第一三行)、これを還元せしめて一三―デオキシ―C―〇七六アグリコンを形成させる(第二六頁第一七行ないし第一九行)。

右のとおり、反応方法はC―〇七六化合物以下すべて八種類の化合物の総称に基づいて当初明細書に説明され、さらに第三九頁第二〇行ないし第四〇頁第一一行には、a系列の化合物とb系列の化合物は本願発明の反応に関し二五位がプチル基又はプロピル基である構造を常に維持し、この構造上の相違は右反応に関し差異をもたらさないこと、すなわち当初明細書に記載された反応方法は、b系列のC―〇七六化合物にも適用されることが明記されている。

当初明細書には実施例としてa系列の化合物の製造例が記載されているだけでb系列の化合物の製造例はない。しかしながら、前記の記載に照らせば、a系列に関する実施例の条件をb系列にも適用できることが知られるのであるから、当初明細書の記載に従い当業者がb系列の目的化合物を製造することに何ら困難はない。このような場合、実施例がないからといってb系列の化合物について発明が完成していないということはできない。

本願発明におけるC―〇七六化合物の二五位がプロピル(炭素原子三個)である置換基は、その炭素原子が枝分かれしているイソプロピルであって、連続してつながっているn―プロピル(―CH2CH2CH3)でない。本願の発明者は当初明細書に記載された化学式に相当する化合物(n―プロピル)を製造したことはなく、n―プロピルは当初明細書に記載された製造方法により得られる化合物の真の化学構造のものではない。このような場合これを放置すれば明細書中に相互に矛盾する記載が存在することになり、発明の実質又は明細書の要旨に不明瞭な点を生ずるから、実際の発明の内容に従い結果的に誤記であることが判明した化学式を正確な式に変更するための補正をするほかない。

本願発明は、当初明細書において、客観的に確定している八個の出発物質に対し詳細に説明された処理方法を共通に適用し、かつ客観的に確定している八個の目的化合物を得たことを開示しているから、発明は既に完成し、目的化合物は客観的、一義的に特定しており、この発明について化学式を正確な式に変更するための本件補正は要旨変更に当たらない。

また、最終生成物の物性値が開示されていることは、発明を利用する第三者に便利なことはあるであろうが、それがないからといって発明を実施することが特に困難となるわけではない。問題は、当初明細書に産業上利用できる発明が当業者に実施可能な程度に開示されているか否かであり、その原則に従って判断する限り、本願当初明細書には二五位がプロピルである化合物についても十分な開示があった。本件補正は、当初明細書にプロセスの記載によって必要な開示がなされていた発明について物性を補充したものであり、発明は当初より完成していたから、明細書の要旨変更は存しない。

第三請求の原因に対する認否及び被告の主張

一  請求の原因一ないし三の事実は認める。

二  同四は争う。本件決定の認定、判断は正当であり、本件決定に原告主張の違法はない。

1  原告は、化学式を変更する第一次補正がそのまま受け入れられていること、化学式の変更とともに物性値を補充する第二次補正の却下決定の理由が物性値を補充する点のみを根拠とすることを指摘して本件決定が物性値の補充の点のみでなく化学式を変更した点についても要旨変更に該当するとしたのは誤りである旨主張する。

しかしながら、第一次補正及び第二次補正はいずれも本件補正とは別個の手続補正であるから、これらの経過を根拠に本件決定が誤りであるということはできない。

2  本願発明は、新規で有用な化合物を提供するいわゆる化合物発明であるが、一般に化合物発明においては、化合物を製造し、その化合物を物理化学的性質によって確認し、その有用性を明らかにしたとき初めて発明が完成したといえるのであり、したがって、化合物を確認することができる物理化学的性質が記載されていない明細書にこれを加える補正、製造方法が明らかでない明細書にこれを加える補正、及び有用性が明らかでない明細書にこれを加える補正は、明細書の要旨を変更するものとして却下するのが特許庁におけるプラクティスである。

本件決定は、当初明細書には、一般式で示された本願発明の化合物のうち、R3がn―プロピル基であるいわゆるb系列の化合物については、単に一般式とそのR3がn―プロピル基である場合を包含する定義によって開示されているのみで、どのようにして製造しどのような物理化学的性質を持つか具体的に示す記載は何もないと認定し、このような明細書に新たに物理化学的性質を補充し、加えて一般式による構造をも補正する本件補正は、前記プラクティスからみて、明細書の要旨を変更するものと判断したのである。

原告が本願発明の化合物を具体的に開示する記載に該当すると指摘する当初明細書の記載は、いずれも極めて一般的な記載であって、このような記載をもって本願発明の化合物特にn―プロピル基である化合物が実際に製造され、物性によって確認されたということはできない。例えば、C―〇七六化合物のα―L―オレアンドロシス―α―L―オレアンドロス側鎖の除去について原告の指摘する当初明細書第二一頁第一〇行ないし第二二頁第九行には、酸を一・〇~一〇容量%程度含有する水性有機溶剤中で約二〇~四〇度cで六~二四時間かくはんし、既知技術によって分離する旨の記載があるが、C―〇七六化合物の糖側鎖は二個の糖がグルコシド結合しており、一個のみでなく二個ともに加水分解されるかどうか、また、C―〇七六化合物は、糖側鎖の外に加水分解されやすいエステル結合等を持つが、これも一緒に加水分解されることがないのかというような点については実際に実施をし得られる化合物を物性により確認するまでわからないのである。

したがって、明細書に実施例として、使用する酸、溶媒、温度、時間、分離手段等を特定し、原料等の使用量を明記し、反応工程、分離工程の操作の詳細を記載し、得られた化合物の物性を明記する記載がない場合、発明が完成されているとはいえない。

なお、原告は、昭和五二年特許出願公開第一五一一九七号公報(甲第六号証)に基づいて本願発明を説明している。

米国特許出願第七七二、六〇一号は、米国特許出願第六七八、三二八号の部分継続出願であり、この米国特許出願第六七八、三二八号に基づく優先権を主張して日本に出願された昭和五二年特許出願第四四一六九号の公開公報が昭和五二年特許出願公開第一五一一九七号公報(甲第六号証)であること、右公報には原告主張の記載が存することは認めるが、米国特許出願第七七二、六〇一号の記載と右公開公報の記載が一致するかどうかは明らかでなく、たとえ一致するとしても明細書に出願番号が示されているのみの米国特許出願明細書の記載内容が本願明細書にも記載されているということはできないから、右公開公報の記載によって本願発明を説明することは誤りである。

第四証拠関係《省略》

理由

一  請求の原因一(特許庁における手続の経緯)、二(本願発明の特許請求の範囲)及び三(本件決定の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。

二  そこで、原告主張の本件決定の取消事由の存否について判断する。

1  《証拠省略》によれば、前記特許庁における手続の経緯記載の各補正、拒絶理由通知及び第二次補正却下決定の内容は、次のとおりであることが認められる。

(一)  昭和五八年二月九日付け第一次補正は、当初明細書の特許請求の範囲(別紙(一)参照)及び発明の詳細な説明中の「n―プロピル」を「イソプロピル」に訂正すること等を内容とする。

(二)  その後になされた昭和五九年八月一七日付け拒絶理由通知は、(1)本願発明はその出願前国内において頒布された刊行物記載の発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものと認められるから、特許法第二九条第二項に該当すること、及び(2)特許請求の範囲第一~第一九項記載の化合物についてこれらを同定し得る理化学的資料が必要であり、かつ同第二一、第二二項記載の医薬発明について、その医薬効果の裏付けがない点で不備と認められるから、特許法第三六条第四項及び第五項(昭和六〇年法律第四一号による改正前)に規定する要件を満たしていないことを理由とする。

(三)  昭和六〇年三月二二日付け第二次補正は、右拒絶理由通知(2)に対応して本願発明の化合物に関する質量スペクトル、核磁気共鳴(NMR)の測定値を追加するなど目的化合物の物性を補充し、かつ特許請求の範囲を第一ないし第四項に整理することを内容とする。

(四)  同年五月二八日付け決定は、右第二次補正を却下する決定であって、当初明細書には、「R3がイソプロピルである本願発明化合物は、その物性値は記載されておらず、製造方法及びその原料化合物についても具体的に記載されていないし、また、これらの事項はその記載から、自明のものとも認められないから、この化学物質は、当初の明細書において、確認できないものと認められ、上記補正は、化学物質自体が確認できない明細書にその確認資料を加える補正である」ので、当初明細書の要旨を変更するものであることを理由とする。

(五)  原告は、昭和六一年四月七日拒絶査定を受けたので、同年八月二五日審判を請求し、右審判手続において同年九月二四日付けで本件補正をしたが、本件補正は、本願発明の化合物に関する質量スペクトル、核磁気共鳴(NMR)の測定値等を(却下された第二次補正の内容にさらに付加して)追加し、目的化合物の物性を補充し、かつ特許請求の範囲を別紙(二)のとおり補正することを内容とする。

原告は、本件補正については物性値の補充の点において明細書の要旨を変更するか否かを判断すべきであるのに、本件補正をもって化学式をn―プロピルからイソプルに変更し、かつ物性を補充したものであって、当初明細書の要旨を変更するものに該当するとした本件決定の判断はそれまでの審査手続に関し重大な誤認がある旨主張する。

しかしながら、願書に添附した明細書(当初明細書)又は図面について出願公告をすべき旨の決定の謄本の送達前になされた補正がこれらの要旨を変更するものであるか否かの判断は、当初明細書又は図面の記載に基づいて各補正事項についてなされ、数次の補正がある場合それぞれ別個に当初明細書又は図面の記載と対比判断されるのであって、後行の補正の判断時に先行の補正の適否についての積極的な判断がなされていないとしても、先行の補正の拘束の下に要旨変更かどうかを判断しなければならないものではない。

特許出願は、特許権の付与(特許査定)を求める行政手続であり(取下げ等中間的な終局原因がない限り)特許査定又は拒絶査定の確定によって終局するものであるが、手続補正を含めてその間に出願人のする特許法上の行為によって形成された手続は暫定的な状態にあり、手続補正書の提出によってその効力が確定するものではない。補正が要旨変更であると判断した場合は、審査、審判のいずれの段階であるかを問わず、その出願係属中である限り、決定をもってその補正を却下しなければならないのであって、その時期に制限はない。

したがって、前記認定の本件出願に関する審査、審判手続の経緯は、本件決定に影響するものでなく、本件決定を違法ならしめるものではない。

前記認定事実によれば、当初明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明中の「n―プロピル」を「イソプロピル」に訂正する第一次補正については、審査、審判の段階を通じて特許法第五三条第一項の規定に該当するとの積極的な判断はなされていないことが明らかであり、補正をした出願人の立場を考慮すると、昭和五八年二月九日付けでなされた第一次補正について右のような暫定的な手続形成がなされたままで昭和六一年九月二四日付けでなされた本件補正だけを請求の原因三記載の理由により却下する決定をすることが特許行政の運営上妥当であるかについては疑問なしとしないが、そうだからといって、原告主張のように本件決定が物性値の補充の点のみで要旨変更に該当するか否かを判断すべきであったということができないことは、右に説示したところから明らかである。

2  《証拠省略》によれば、当初明細書には、「C―〇七六は有力な抗寄生虫活性を有するマクロライドぐんの一系統である。該化合物はストレプトミセス・アベルミチリス(微工研菌寄第四〇二七号および第四〇二八号)の醗酵液から単離せられた。該微生物の形態的特性およびC―〇七六化合物を単離するのに用いられた方法は米国特許出願番号第七七二、六〇一号に記載せられている。本発明は、C―〇七六化合物の誘導体に関するものである。更に詳しくは、本発明は、一三―位が置換されていないC―〇七六誘導体に関するものである。」(第六頁第九行ないし第二〇行)、「本発明の化合物の製造に対する出発物質であるC―〇七六化合物は、次の構造式で示し得る。」(第七頁第一三行ないし第一五行)と記載され、別紙(三)の構造式(第八頁及び第九頁第一行、第二行)が示され、さらに、「本発明の化合物はα―L―オレアンドロシル―α―L―オレアンドロス基を除去することによって、そしてまたジサツカライドが除去された後に残っている一三―位のヒドロキシ基を除去することによって前記C―〇七六化合物から誘導される。」(第九頁第一五行ないし第二〇行)と記載されていることが認められる。

当初明細書の右記載事項によれば、本願発明は、抗寄生虫剤として有用な別紙(一)の構造式で示される一三―位が置換されていない一三―デオキシ―C―〇七六化合物の誘導体に関するものであり、C―〇七六、すなわち、有力な抗寄生虫活性を有するマクロイド群の一系統であり、ストレプトミセス・アベルミチリスの醗酵液から単離されたc―〇七六化合物を出発物質とし、一三―位のα―L―オレアンドロシス―α―L―オレアンドロス基を除去することによって得られたものであることが認められる。

当初明細書記載の特許請求の範囲(別紙(一)参照)と本件補正における特許請求の範囲(別紙(二)参照)とを対比すると、本件補正は、本願発明の目的化合物を表す一般式において、R3のn―プロピルをイソプロピルに補正するものであり、また、該R3がイソプロピルである化合物を含め目的化合物の物性を補充するものであることは前述のとおりである。

そして、前記本件決定の理由の要点に請求の原因に対する被告の主張を参酌すると、本件決定は、当初明細書には、R3がn―プロピルである化合物について、その物自体を確認できるほどの開示がない、すなわち、化学物質の発明として成立していないという趣旨でなされたものと認められるところ、原告は、本件補正は当初明細書にプロセスの記載によって必要な開示がなされていた発明につき物性を補充したものであり、発明は当初より完成していたから、明細書の要旨変更は存しない旨主張するので、この点について検討する。

本願発明の前記式で表される化合物は、微生物ストレプトミセス・アベルミチリスの醗酵液から単離されたC―〇七六化合物を出発物質とすること前述のとおりであるから、まず、この出発物質についてみると、《証拠省略》によれば、当初明細書には、前記C―〇七六化合物について、「前述した構造式に関して、個々のC―〇七六化合物は、次の通り確認される。

C―076 R1  R2  R3

A/a 二重結合 第2級ブチル ―CCH3

A/b 二重結合 n―プロピル ―CCH3

A2a ―OH 第2級ブチル ―CCH3

A2b ―OH n―プロピル ―CCH3

B/a 二重結合 第2級ブチル ―OH

B/b 二重結合 n―プロピル ―OH

B2a ―OH 第2級ブチル ―OH

B2b ―OH n―プロピル ―OH」

(第九頁第三行ないし第一四行)、「醗酵液から本発明の方法に対する出発物質として役立つC―〇七六化合物を単離する場合において、種々なH―〇七六化合物が等しくない量で製造されることが判った。特に、“a系化合物は相当する“b”系化合物よりもより高い割合で製造される。相当する“b”系に対する“a”系の重量比は、約85:15~99:1である。“a”系と“b”系との間にある相違点は、C―〇七六化合物を通じて一定であってそしてそれぞれ二五―位においてn―ブチル基および第二級プロピル(《証拠省略》によれば、第一次補正において、右「n―」を「第二級」、「第二級」を「イソ」と補正していることが認められるが、これは本来「n―プロピル」及び「第二級ブチル」の誤記と認められる。)からなる。もちろん、この差は本反応の何れをも妨害しない。特に“b”成分を関連した“a”成分から分離することは必要でない。“b”化合物は非常に低い重量%でのみ存在しそして構造上の相違は反応方法及び生物学的活性に対して無視し得る効果を有するので、これらの密接に関連した化合物の分離は、一般に実施しない。」(第三九頁第一三行ないし第四〇頁第一一行)との記載が有ることが認められるから、C―〇七六化合物は、a系及びb系の八個の化合物から成るものであることが明らかである。

また、《証拠省略》によれば、当初明細書に引用されている米国特許出願第七七二、六〇一号の出願は、米国特許出願第六七八、三二八号の部分継続出願であり、昭和五二年特許出願公開第一五一一九七号として公開された発明は、該米国特許出願第六七八、三二八号の優先権主張に基づく出願に係る発明であると認められる。そして、《証拠省略》によれば、右公開公報には、「ストレプトミセス アベルミチリス(中略)によって生産されるC―〇七六から四つの主成分と四つの微量成分が単離された。この八つの異なる成分はC―〇七六A/a、A/b、A2a、A2b、B/a、B/b、B2a及びB2bと命名された。我々の同定用語では、接尾語“a”は主成分を、接尾語“b”は微量成分を意味する。“a”及び“b”化合物間の構造上の相違は四つの対のおのおのについて同じであると信じられている。(中略)一般に、A/ 化合物は全C―〇七六複合化合物の約二〇ないし三〇重量%を占め、A2化合物は約一~二〇重量%、そしてB/及びB2化合物はそれぞれ約二五~三五重量%を占めることが判明した。“a”シリーズの化合物と“b”シリーズの化合物の重量比は約85:15ないし99:1である全培養液からのC―〇七六化合物各シリーズの分離及び各成分の回収は、溶媒抽出及び各種のクロマトグラフィー技術及び溶媒系を用いたクロマトグラフィー分画法の応用によって行われる。」(第七頁右下欄第一〇行ないし第八頁左上欄第一四行)と記載され、この八個の化合物のそれぞれについて質量スペクトルにより決定された分子量(第九頁下欄の表1)及び特徴的な質量スペクトルのピーク(第一二頁上欄の表3)が開示され、該出発物質の製法として醗酵による製法が詳述されており、さらに第一二頁下欄ないし第一三頁上欄のa系化合物及びb系化合物の構造についての記載はa系とb系とは、式において二五―位、すなわちR2(本願発明のR3に相当する。)がブチルであるかプロピルであるかの点で相違することを示していることが認められる。

したがって、前記公開公報には、b系、すなわち、プロピルがn―があるいはイソかは不明であるとしても、すくなくともR3がプロピルである化合物が物性をもって示されており、これによって該化合物の存在を確認できるから、C―〇七六化合物が八個の化合物から成るものであることが明らかである。

被告は、右公開公報の記載によって本願発明を説明することは誤りである旨主張するが、前記認定のとおり、米国特許出願第七七二、六〇一号は当初明細書中に本願発明の出発物質であるC―〇七六化合物を単離する方法を教示するものとして引用されており、C―〇七六化合物そのものについては当初明細書の他の記載から明瞭である。右公開公報は、右米国特許出願と係わりのある、本件出願前に頒布された刊行物であり、C―〇七六化合物が既に公知の物質であることを明らかにするものであるから、当初明細書に記載のC―〇七六化合物をより明瞭に認識させる点で右公開公報を引用し説明することは誤りとはいえない。

したがって、当初明細書に記載された本願発明の目的化合物を製造するための原料は、C―〇七六化合物、すなわち右認定の八個の化合物であることが明らかである。

次に、本願発明の目的化合物の製造についてみると、《証拠省略》によれば、当初明細書には、a系、すなわち、R3が第二級ブチルである化合物についての実施例があるのみで、R3がn―プロピルである化合物についての実施例は示されていないが、「本発明の化合物は、一三―ジサツカライド系の化合物からのC―〇七六出発物質をアグリコン化合物(一三―位はヒドロキシである)に変換し、次いで一三―ヒドロキシ基を一三―ハロゲンおよび一三―デオキシ基に変換する一連の反応によって製造される」(第一二頁八行ないし一三行)と記載されていることが認められるから、本願発明の化合物は、基本的にはC―〇七六化合物の糖側鎖であるα―L―オレアンドロシル―α―L―オレアンドロス基を除去することによって誘導される物資であるということができ、さらに前記認定の「a系とb系との間にある相違点はC―〇七六化合物を通じて一定であってそしてそれぞれ二五―位においてn―ブチル基および第二級プロピル(n―プロピル及び第二級ブチルの誤記であることは前述のとおりである。)からなる。もちろん、この差は、本反応の何れをも妨害しない。特に、b成分を関連したa成分から分離することは必要でない。」(第三九頁第二〇行ないし第四〇頁第六行)との記載は、a系、b系のいずれにおいても同様の反応が行われることを教示するものである。そして、《証拠省略》によれば、当初明細書には、前記C―〇七六化合物のα―L―オレアンドロシル―α―L―オレアンドロス基の除去された化合物、すなわち、アグリコン化合物として、a系、すなわち、R3が第二級ブチル基であるA/a、A2a、B/a、B2aのアグリコン化合物の製造1~製造8(第七一頁第一七行ないし第八一頁第八行)として具体的に示され、これらの化合物を用いて本願発明の目的化合物を製造する例は、例5及び例6(第四五頁第二〇行ないし第四七頁第七行)、例9(第四九頁第五行ないし第五〇頁第三行)、例12(第五一頁第一七行ないし第五二頁第五行)等として示されていることが認められる。

以上の当初明細書の記載事項によれば、R3が該第二級ブチル基とは―CH2―が一つ異なるのみのb系、すなわち、R3がプロピルである目的化合物が同様に製造できると解するのが自然であり、当初明細書には、該化合物の製造を容易に実施できる程度の開示があるというべきである。

したがって、当初明細書には、出発物質としてR3がプロピル(本願発明ではn―プロピルであると認識している。)であるC―〇七六化合物は、A/b、A2b、B/b及びB2bとして明瞭に開示され、また、その製造例についても実質的に開示されているということができるから、該C―〇七六化合物からジサツカライドが除去されたR3がプロピルである目的化合物は、当初明細書において十分に特定し得るものであり、該化合物についての実施例及び確認資料がない点において記載が不備であるとしても、これをもって該化合物を実質的に把握することのできる記載がなく、化学物質の発明として成立していないとすることはできない。

被告は、当初明細書の記載はいずれも極めて一般的な記載であって、このような記載をもって本願発明の化合物特にR3がn―プロピル基である化合物が実際に製造され、物性によって確認されたということはできない、としてC―〇七六化合物のα―L―オレアンドロシス―α―L―オレアンドロス側鎖の除去について当初明細書第二一頁第一〇行ないし第二二頁第九行の記載を援用している。

《証拠省略》によれば、当初明細書には、C―〇七六化合物の糖側鎖及びエステル結合についての懸念の根拠が十分に示されているとまではいえないが、被告の摘示した一般的な記載の他に、R3が第二級ブチル基である化合物の製造例に関する記載により、C―〇七六化合物のα―L―オレアンドロシス―α―L―オレアンドロス側鎖の除去によりC―〇七六アグリコン(すなわち、グルコシド結合している二個の糖が加水分解され、また、エステル結合は加水分解されない。)が得られることが明らかであることは前述のとおりであり、R3がn―プロピル基の点で異なるのみの化合物においても同様の反応が行われるであろうと考えることは別の反応が行われ、あるいは目的化合物が得られないと考えるよりも自然であるから、被告の前記主張は理由がない。

3  以上のとおりであるから、「当初明細書には、R3がn―プロピル基である目的化合物については、その製造例、物性等の該化合物を実質的に把握することのできる記載は全くなく、単にR3がn―プロピル基であるという構造によって把握できるにすぎない」からR3がn―プロピル基である目的化合物が開示されていないとした本件決定の認定は誤りであり、これを前提に本件補正は「明細書の要旨を変更するものに該当する」とした本件決定の判断は誤りであるから、本件決定は違法として取消しを免れない。

三  よって、本件決定の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は理由があるから正当としてこれを認容し、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条の各規定を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 春日民雄 岩田嘉彦)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例